くらた内科クリニック

横浜市 鶴見区 内科 循環器科 呼吸器科 アレルギー科 くらた内科クリニック

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ドクター本多のコラム

コラムNo.5

山の診療所の一日

 このシリーズは、山岳愛好家の倉田先生をトリビュートして、山岳医療の話を書かせていただいています。

 山の診療所=「立山地獄谷診療所」などと言っていたものの、実はそんな正式名称はどこにもなく、入り口の看板には、「金沢大学高地医療研究所」と書いてありました。あやしいでしょう?もちろん、何も研究してはいません。
実態は、山岳部の根城でした。OBもいて診療できるので、近隣のヒュッテの要望で、自然発生的に診療所になってしまったようです(笑)もう半世紀以上前のお話です。したがって保健所に診療所登録してなかったのではないでしょうか?健康保険診療も通用しませんでした。自由診療といいます、お代は患者さんのご寄付(お布施?)でした。
いまは永久休業中ですから何でも話してしまいましょう(笑)

 すでに書いたように、立山黒部アルペンルートがあり、頂上の室堂センターには立派な診療所があったのですが、富山医師会から内科の先生が来られており、山岳に多い、怪我の治療(外科系)は得てではなかったんですね(半世紀前の当時は、ですよ、今は違うでしょう)

 そこで、荒くれ医者が棲むらしい、地獄谷診療所なら、「切った貼った」に強いんじゃないか?という期待が生まれ、こうなってしまったのです。それには北陸の医学部の雄、金沢大学への土地における信頼がありました。外科疾患は地獄谷へ行け!と・・・
もっとも、診療所は、沢に並ぶように営業していた多くのヒュッテに歩いて行けたので、簡単な風邪や胃腸症状も頼まれたものです。診療の御本家室堂診療所には、ヒュッテ群からは急坂を登らなければならなかったのです。

 診療所をご紹介しましょう。ただの山小屋ですが、入って右手に診察室兼処置室があり、もちろん床は板敷きで、ぎしぎし言ったものです。なにしろ、半世紀前からさらに10年も前の山岳部先輩が自分らで建てた小屋らしいですから・・笑、昔の若者は凄いです。
隙間だらけのガラス窓は、割れたガラスを何か所も紙テープで止めてありました。
 そこにはプロパンガスが引いてあり、手術用の機器や消毒セット、手術用ベッドなどが鎮座、もちろん水道はなぜかどこからか引いてあり、蛇口から凍るような水が凍らないよういつも流れていました。湧き水でしょうね。

 さて、大学3年生から、夏休みに希望者が修業にはいります。といっても1週間に2~3人の枠しかありません。3年生は「専門学部」の1年生という意味で「学1(がくいち)」と呼ばれます。学1らは、早朝誰よりも早く起き、診察室の床の掃除、機器の熱湯消毒と、基本準備を行います。
それから、裏手にまわり、倉庫にある、ガソリン式の発電機のエンジンをかけ、発電します。騒音うるさいです。

 次は飯炊きです。味噌汁も作ります。材料は、週に1回、学1が富山の里まで下りて、買い出しに行ってきます。お米はなぜか、いつもあり、どうやら代々の山岳部OBの差し入れらしかったです。さすが米どころ富山です。
野菜や穀類を細かく切り、油で炒め、大鍋に作る味噌汁は、毎回味が変わるのでしたが(作り手にもよる)、先輩に、これはうまい!と言ってもらうのが目標でした。
食卓?むろん、小屋の前の石を組んだ、露天の食卓です。それはそれは気持ちのいい朝めしでした。雲行きの怪しいときは、たいへんでしたが・・

 高度も2500メートル級ともなると、湯の沸騰は100度ではありません。沸点は下がりますね、ご存知ですか?そこで高地でうまい飯を炊くのは至難の業です。100度にならないので、米に芯が残ります。圧力鍋なんてありません。米に湯をしみこませ、柔らかく炊く工夫が必要でした。
うまい飯のときは、先輩が、お前、来年も来い!と言ってくれるので、それがうれしかったのです。
 食後の皿洗いもごみ捨ても、なんでもやりましたよ。学1は、ここでは医学生などではありません。まさに家政夫でありました。楽しかったですし、実はこれが将来の「学び」の原点になりました。

 一階の診察室の向かいは倉庫で、何が入っているのかわかりませんが、いろいろな袋が置いてありました、ほとんどが何十年間のごみではないかと察しましたが、一画は、緊急対応用の酸素ボンベ・出前診療(往診・救助)のセットでありました。これを担ぐのは、当然、常駐の山岳部部員であり、私たち新米の仕事ではありません。
 この二部屋の間に狭い階段があり、途中においてある電話(各ヒュッテとつながっている地域有線電話)を蹴っ飛ばさないよう上がっていくと、寝床!8畳くらいの部屋となっておりました。皆の寝袋が、空になったまま乱雑に並んでいます。貧乏学生から裕福学生までおり、シュラフも格安品(綿)から超高級品(高級ダウン)が並んでいて壮観でしたね。

 夜は、ただ眠るはずはありません。毎夜、酒宴です。当時は主流は安いウィスキー(角瓶かな)でした。山男が集まれば、歌です。山の歌です。しみじみとした渋い山の歌がたくさんあり、これをみなで大合唱するのですが、ひとりひとり、歌うシーンもあります。
これは、誰も歌詞を見ながら歌う者はなく、そらで憶えているのが山男の証拠です。
 やがて、歌いきると、ジャズセッションとなり、みながギターの音や、ドラムの音、ベースの音を口で鳴らす不思議な、アドリブセッションとなり、いつしか眠ってしまいます。毎晩2時ころでした。
 ただ、トイレは、小屋を出た外に別棟で建っており、そこは毎年、開山のときに来た先輩が、死体を見たとか、死ぬ前に爪でひっかいた後がある、などと怖い話をするので、やはりひとりでいくのはこわい(漆黒のトイレですから)、みな、寝る前に相棒を誘っては、ふたりで行くのが、今思うと笑える山男たちでした。
もちろん、トイレの外の死体の話は嘘ですが、わかっていても漆黒のトイレは恐ろしかったです。 浅い川を隔てて立つ廃屋となった古いヒュッテの窓から、ろうそくの火が見えた!!などと騒いで、逃げかえったものです。

 そんな夜でも、夜間往診依頼の電話は遠慮なくかかってくるのでした。

つ・づ・く